+ 「鼓動」
泣いている女の子がいた。
気の強そうな、無感動の眼を持つ女の子だった。
その軌跡も、ただ無為に流された涙が作っただけで、彼女は別に、ただ、泣いていた。
彼女の後ろには何も無い。
あと半歩でも後ろに下がれば、30階下、地上へと落ちるだろう。
何でそんなところにいるのか。
簡単だ。
彼女は、死ぬ為にそこにいる。
金網の先にいて、俺はこちら側で、でも、俺にはその子の表情がよく見える。
けれど手は届かない。
つまりは、そんな距離に、俺たちは立っていた。
誰も何も言わず、風だけが、ただ鳴いていた。
「何で、そこにいる。」
「悲しみを、断つために。」
「意味を、どこに置いてきた。」
「私は、最初から、持ってない。」
「それが死ぬ理由か?」
「死ぬ理由はないけど、―生きる理由もないだけね。」
再び、音が消える。
「生きる理由を探すのは、疲れるのよ。自分には何の才能があって、何を頑張ればよくって、
何を目指したら、納得出来るのか判らない。
才能なんかなくて、機会もなくて、私は何者にもなってない。
才能があって、そういう機会があったら出来たかなって考えてみても、
今の自分を見るとね、それも無理だったんだろうな、なんて思うんだ。」
その言葉に、自身を重ねる。
俺は―俺だって―
「なら、何の抑揚もない生を続けるってのは、どうだ?」
「なにそれ。」
「簡単なことだ。俺がお前を飼う。」
「鎖に繋がれるのは、嫌。」
「そんなことしない。ただ、お前は好きにしていればいい。
毎日をだらだらしていてくれて構わない。ただ、生きていればいい。
互いのその生を、意味にすればいい。」
「私には何の執着もないから、きっとあんたの大切なものも簡単に壊すわよ?」
「その意気だ。」
「・・・?」
「実は、俺もそこから飛び降りるつもりだったんだ。」
音が消える。
命の鼓動さえ、ここでは流れていないかのように、何も聞こえない。
「あんたの大切なものも・・・意味も、もうなくなったんだ。」
「そうしてここにきたら、先客がいてびっくりってわけさ。」
「だから?それで私を囲う理由になんかならないわ。」
「いろんなもんを落としてきてな・・・拾うもの拾うもの、消えていった。
何かを掴まないと、怖くて必死だったんだ。でも、弱いところは見せられないと隠して頑張った。
そうしたら、誰にも気づいて貰えなかった。フフ、俺、隠すの上手かったんだろうな。」
「だから!それが何だって言うの!!」
「君なら、そこから飛び降りるしかないって思ったこの気持ちを、解って貰えるのかなって、思っただけさ。」
「―っ。」
「だから、それなら、誰も見てくれない、何者にもなれなかった俺たちがそれぞれで、
それぞれの意味になれるのかなって、思わないか。」
「お為ごかし。ようは私の体が欲しいんでしょ。」
「その程度の欲望で生を続けられるなら、そもそもこんな場所に来ないさ。」
「なら、あんたの言うその程度で、私がそっちに戻るだなんてだって、思ってないんでしょ?」
「ご慧眼お見事だね。思っちゃいないさ。
ただ、想像してくれよ。先に飛ばれた後に、同じところからすぐ飛ぶってのは、ちょっと引けちまうだろ?
出来れば、俺の後に飛んでほしいなと、思ってね。」
沈黙。
その後、肩をすくめて見せた俺に対し、彼女はくすりと笑った。
「あーあ、最後になって誰かが、捻くれてでも私を見てくれるなんてね。本当、何なのかな。私の人生。」
「それはこっちの台詞だ。」
「けど、あんたの案は却下だわ。お互いだらだら続けるだけなら、お互いここで終わらせてもいいんでしょ?
どうせなら、あんたもこっち来なよ。」
「成程、それもいいな。―が、いいのか?」
「いいよ。」
彼女が挑発するように、笑った。
俺はそれに、そいつは、光栄だな。と呟いた。
「高いな。」
「だからいいんじゃない。それに、ここの景色は、割と悪くないって思ってるし。」
「そうだな。」
金網を越えて、彼女の隣に立った。
一度だけ、彼女と目線を合わせて、それから、俺たちは、金網を背にした。
互いに相手側の手を差し出す。
互いに、祈りのように、指を絡ませる。
「もし、来世があるなら、結婚でもしないか?」
「何、結局体目当てなわけ?」
「言ってみただけだ。」
「いいよ。」
「いいのか?」
「働かないから。養うんでしょ?」
「そうだな。うん、それでもいいさ。」
一際、高い風が吹いた。
景色の最遠に光が走り始める。
夜明けだ。
「―じゃ、逝くわよ。」
「あぁ。」
揃って、金網から、手を離す。
終わりへの一歩を踏み出す。
「あんたさ、本当は何であんな事言ったわけ?」
体が、もう戻れない位置まで倒れる。
最後の最後に聞かれたその質問に、俺は―
白い世界。
そこに漂う。
ただずっとそうしている事に何の抵抗も無い、そんな感覚。
―誰かに、怒鳴られた気がした。
自分が、ここにいてはいけないって、そう言われた気がした。
目が醒めた時、暫くは自分の状況が判らなかった。
白い天井。白い壁。白い窓。白いカーテン。
自分が、どうやら病室にいるらしいと解ったのは、果たしてどの位経った頃だったか。
何日か経って、退院する事になった。
驚く事に、怪我は殆どなかったらしい。
世間では、自分たちの起こした事件でけっこう賑わったとか聞いた。
まぁ、他人の不幸なんてそんなもんだ。
何回か訊ねたが、自分と一緒に落ちたはずのもう一人の事は、教えて貰えなかった。
病院が違うのだろうかと考える。住んでいた場所だって違ったはずだから。
だから、退院したら、会いに行こうと思った。
退院したら。会いに行こうと、思っていた。
「何でも、あなたの事を自分の胸に抱きしめて、自分が下敷きになったそうよ。」
あいつの事を訊いた受付の女性看護師は、ばつが悪そうにそんな事を言った。
あいつは、一人で、一人だけ、あいつは、先に、一人で、私を、一人で・・・
あいつは、あいつは、私を庇って、一人で、庇って、一人で、死んだらしい。
「ねぇ、私って、見とれるほど綺麗かなぁ。」
「えっ? え、えぇ、そ、そうね・・・普通の子よりは・・・まぁ、ねぇ、その。。」
看護師がしどろもどろにそんな事を言う。
ははっ、困ってやんの。―なんだ、あいつ、最後くらいちゃんと答えたのかと思ったのに。
ちょっと、嬉しいって思ったのに。
バカヤロウが。
病院のエントランスを抜け、自動ドアを出たあたりで、ばたばたとスーツに書類を抱えた男が近づいてくる。
「君!!私は青少年健全育成委員会の者だかね!!大層な事をしでかしてくれたものだね!!まだ若い身空で心中とは自分を大事にしないにも程がありますよ!!親御さんだって何て思うか!!君をその歳まで立派に育ててくれた恩と生きていることに感謝をしてだね!!あぁそうそう、まず今後の君の生活だが、早速更正の為に指導員をつけ―っぐはぁ!!!」
うるさいのでパンチ。
「きっ、君っ!!!何をする!!非行に走らない為にも私が責任持って管理を―ひっ、ふっ、何だねその振りかぶった手は!!!や、やめなさい!!!」
「うるせぇんだよ!!!!!てめぇなんぞに言われねーでも、こちとらもうそう簡単に死んでやるかってんだ!!!
分ったらとりあえず黙れ!!後な、心中じゃねぇ!!!!」
一通り怒鳴り散らし、私は踵を返す。
その私の背に、なんたら委員会の男のヒステリックな声が刺さる。
あいつあんな情緒不安定気味でどこの誰だって?笑わせる。
当分私はあんなやつと付き合ってかなきゃならんのか。面倒くさ。
ふと、空を見上げた。
高い。
日差しを避ける為に手をひさしにした私の頬を、風が撫でる。
あいつは、来世にもう行ったんだろうか。
それとも、私を待ってまだ・・・
「どっちでもいいか。」
勝手に行ったんなら勝手にしろ。
待ってるなら、ずっと待ちぼうけてろ。
最後までふざけた事言ってたあいつに吠え面かかせたくて、
私は長生きすることにした。
「鼓動」 ―完―